僕たちは「音楽」と向き合うことができない(のか)
先週末、代々木ZHER THE ZOOにて催された「IKKI Festival 2014」というイベントを見てきた。
これは小学館発行のコミック雑誌「月刊IKKI」及び別冊のWebコミックの編集部が主催した企画で、コミックファンがIKKI連載作家たちと話したりサイン本を受け取ったりできるパーティだ。ゆえに「音楽フェス」という位置付けではない。
が、なぜか3時間あるそのイベントの中には4本もの音楽ライブが組まれている。
ライブの演者は、一部ゲストミュージシャンを呼んではいたものの、基本的にはIKKI連載の漫画家(及び編集長)である。
ついでにいうと幕間では漫画家のライブドローイング(その場で漫画を描き、その様子が場内のスクリーンに映される)と共にDJタイムがあったのだが、そのDJも漫画家(複数人持ち回り)だった。
もともとネットを介してアマチュアの音楽と漫画の両方を発信していたノッツは、一昨年音楽活動を本格的にするために山口県から上京する。しかし何の因果か手慰みに描いていた漫画の方が業界の注目を浴び単行本を発行、気が付いたら名実ともにプロの漫画家になっていた*3
さて、そのノッツは20分ほどの出演時間で昔からの自分の曲を3曲歌う。
音楽家と漫画家の二足のわらじを履く生活をしていたとはいえ、最近はほぼ専業漫画家である。「二足のわらじ」というには漫画家稼業にだいぶ傾いており、ミュージシャンとしては裸足同然になっている。
人前でライブをするのが年に一回程度の現状で、声が震えたり、リズムがモタついたりするのは仕方がないのだが、
毎日スタジオにこもって練習し、曲を作り、ライブをこなす専業ミュージシャンたちと比べてしまうと、そのパフォーマンスは少なからず見劣りしてしまう。
しかし、それでも、僕はノッツの歌を聴けて良かったと思うし、このライブは特別なものだったと思う。
それは全くもって個人的な思い入れによる。
昔から、というほどでもないが、何年か前にたまたまネットを通じて彼の歌や漫画に触れたときに、「巧くはないけれど何か引き込まれる」ようなセンスを感じた。
以来、ホームページやTwitterなどで彼の人となりがわかってくるにつれ、
「あぁ、またノッツさんが面白そうなことをやっているな」などと考えながら期待してしまう。
要するに、僕は曲や漫画を単体で見ておらず、「ノッツ」という人物のフィルターを通して補正をかけてしまっている。
全く知り合いでもないのに、友人のような錯覚に陥って応援している。そもそも、いちいち「さん」付けしてしまうとは何事か。この時点で距離の取り方がおかしい。
僕は彼を客観的に評価することができていない。曲の質を、パフォーマンスの質を、漫画の質を、「純粋」に見てはいない。
だが、それが悪いか。
ネット普及以前より存在するアイドルやバンドの各種ファンクラブ通信などといったものからそうだと思うのだが、作品以外の作者のパーソナリティに触れることが、(音楽に限らず)創作物への印象を大きく作用する。
ざっくり言うと、「創作物をもっと好きになってもらうための付加価値」はかなり昔から働いている。
いやもっと無責任な暴論を言ってしまうと、ファンクラブどころの話ではない。
クラシックでもジャズでも雅楽でも、作曲家や音楽史などについて学ぶことは、「関連させることで、曲を曲だけで評価しない」ためにあるのではないか。
レコード会社など公式アカウントの宣伝や告知だけでなく、ミュージシャン個人のアカウントから、彼らや彼女らは発信する。
自分の音楽への思いを。
ライブ前後の楽屋の表情を。
ささいな私生活のひとコマを。
それがファンに届き、喚起されたイメージは曲にプラスアルファの魅力を与えるのではないだろうか。
(もちろん逆に、発信したものが負のイメージを喚起し、曲をも嫌いにさせることもままある。「炎上」というリスクも増大した。)
詞やメロディやリズムやアレンジといった「楽曲そのもの」の要素以外に、(良かれ悪しかれ)僕ら聴き手はどうしても左右される。
それは僕らにとって、音楽そのものと向き合い、「正しく」それを評価することが難しいことを、つまり僕らはほとんど音楽の評価を「間違えて」いることを意味するのか。
それとも、曲が作られた背景や制作者の人柄や流されるメディアといった「付加価値」的な要素も込みで、僕らは音楽を一応は「正しく」評価できているのか。
そもそも「正しさ」とは何か。
音楽は人間が作るもので、ひとつの曲には作った人間の顔が見える。
その人間に対する思いが、曲を好きにさせても良いのではないかと思う。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しとは言うが、その一方で坊主を愛せば袈裟まで愛することだってできる。
されど、坊主と袈裟は一体ではない。
やはり一方で、「人となり」や背景の「物語」に拠らない耳ももっていたいと思う。
ライブで、オムニバスアルバムで、ラジオやYouTubeで、
たまたま聴いた名も知らぬミュージシャンの歌にシビれることができるのは、幸せなことだ。
今月頭の「偽ベートーベン」騒動のように作曲家(ですらなかったのだが)に問題があったからと、それ自体には罪のない曲まで叩かれ、CDの回収にまで及んでしまうのは、不幸なことだ。
上述したノッツが、以前Twitterで以下のように発現していた。
某ニコニコ動画は 右上に投稿者が表示されない時代が 好きでした お前が誰だとかは知らんし興味もないがその投稿動画でわれらを楽しませてくれるんなら俺は貴様を愛でてやらんでもないという時代が 何を言ったかじゃなく誰が言ったかの世界ではなく 誰が言ったかじゃなく何を言ったかの世界が……
— ノッツ (@knotscream) 2012, 12月 28
初音ミク黎明期、まだ「○○P」という言葉すらなかった時代、10万以上、100万以上の再生数を叩き出し、そのまま立ち去った投稿者は数知れず。
今でもそういったことがないわけではないが、「○○の新作」というだけでランキング上位は約束され、新規投稿者が参入するためのハードルは昔よりもかなり上がった。
「誰が言ったか」だけの色眼鏡で受け入れたり弾いたりするのも寂しいし、
「何を言ったか」だけの冷ややかな目で切り捨てるのも世知辛い。
「音楽」を聴くのは、かくも難しい。