曲書緩想文

もともと音楽の話ばっかりしてました。今はよくわかりません。

それは、喪失か。(The Get Up Kids "There Are Rules")

数年前、少年ジャンプで『バクマン。』という漫画家漫画が人気を博していたが、

作中で最初の連載である推理バトル漫画"偽探偵TRAP"を打ち切られた後の主人公たちが、次作では全く違う作風の"走れ!大発タント"というギャグ作品を描くことになる展開があった。
 
バクマン。 9 (ジャンプコミックス)

バクマン。 9 (ジャンプコミックス)

 

 

慣れないギャグ、ネタの枯渇、ライバルに差を付けられる焦燥などのストレスを抱え、

最終的には「このまま連載を続けてもトップにはなれない」と思って自分から打ち切りを申し出ることになる。
 
しかし、連載(させられていた)当時は無駄だと思っていた"タント"の経験は確実に彼らの地力を底上げしており、
後の大ヒット作品の中で、それまでになかった笑いの要素を自然に盛り込むことができるようになる。
これがなければ、新作も前作の焼き直しになっていたのではないだろうか。
 
 
僕は『バクマン。』の中でこの"タント編"を忘れることができない。
それは、僕らが「経験値」について話をするとき、このエピソードが示唆的な説話の型になっているからだと思う。
 
そんなことを最近になって、The Get Up Kids(以下TGUK)の5枚目のアルバム"There Are Rules"を聴いたときに思い返した。

 

There Are Rules

There Are Rules

 

 

最初に一聴したときの印象は

「ずいぶんあらく(荒く/粗く)なった」と感じた。
テンポは速めの曲が多いが、全体的に音が歪んでいて、ボーカルにもノイズエフェクトがかかっている。そして、曲調はダークでどこか無機質だ。
初期のTGUKが持っていたみずみずしい疾走感も、3rd以降の泣きのメロディもほぼない。
 
これを買ったのは実は発売から2年以上も経った後のつい最近で、買う前にちょっと検索してみた。
 
Amazonでの評価は、5段階で2.7。
 
三件しかレビューがない状態で、偏ったものではあるものの、他のアルバムが軒並み4以上であることを鑑みると、恐るべき低空飛行だ。
 
他にも1,2件のブログなどで紹介されているのを見た。
詳しく何が書いてあったかは覚えていないが、とにかく辛口のコメントだった。
「今までのTGUKの作品を期待している人にはお薦めできない」
こんな感じのレビューが大半だった気がする。
本作品を持っていた友人も、
TGUKだと思わなければそれなりに聴けるんじゃない」と言う始末。
 
これだけ方々で叩かれていると、むしろ怖いモノ見たさで買いたくなった、というのが当初の本音である。希代のクソゲーと言われたPS2の『聖剣伝説4』を980円(新品)で買ったときの感じが甦る*1
 
で、実際に聴いた感想が、前述の通り。
これは確かに困惑する。
「エモ」の代名詞だったTGUKが、「エモく」ない。
まるで自分たちから「エモ」を遠ざけているかのようだ。
多くの人たちが、「こんなのはTGUKらしくない」と言うのもわからなくはない。
 
 
けれども、ここで少し考えてみたい。
「TGUKらしさ」とは、いったい何か。
 
まず、ここまでのTGUKの沿革をざっと振り返ってみる。
 
1995年に高校の同級生を中心に結成されたTGUKは、3枚のシングルの後、1997年に"Four Minute Mile"でアルバムデビューすると、1999年に2ndアルバム"Something To Write Home About"の大ヒットで一躍世界中に「エモ」ブームを巻き起こす。
ところが、その2ndのリリースツアーでまる三年間かけてアメリカ・ヨーロッパ・オーストラリア・日本を廻り続けて疲弊しきったバンドは「疾走感のあるパワーポップ」を演奏することに嫌気が差してしまう。
その反動か、2002年の3rdアルバム"On A Wire"ではアップテンポな曲を一曲も入れないという誰も予想しなかった変化を遂げる。
 
この作品は新たなファン層を開拓したものの、従来からのファンや音楽誌の多くを困惑せしめ、
「TGUKは枯れてしまった」と、(皮肉にも彼ら自身の作ったブームの中で生まれた)他のエモ・バンドへとその目を離れさせることになった*2
 
2ndよりも小規模なプロモーション、リリースツアーなどを経て2004年、4thアルバム"Guilt Show"をリリース。
初期の熱狂的なスピード感を再び取り入れるが、そこに3rdにあったような複雑かつ妖艶なサウンドが組み合わさる。ここまでの集大成ともいえる作品だった。
3rdの(ある意味)衝撃的な転換で、いったいTGUKは何処へ行くのかをハラハラしていたファンは、今度は良い意味で驚かされる。
 
ところが、この4thアルバム制作の際、
  • JimとJamesの作曲作業不参加*3
  • それによるメンバー間の不和、
  • Dashboard Confessionalら新世代バンドの台頭に隠れて低調なセールス
などの要因が重なり、バンドの絆は急速に綻んでゆく。
 
その綻びは、その後の何本かのツアーによって手のつけようがないほど悪化し、
2005年3月、4thアルバム発売からわずか1年でバンドは解散を発表する。
その2か月前には結成10周年記念のライブが行われたのにもかかわらず、である*4
そして同年7月、地元カンサスでのライブを最後に、TGUKはその活動に幕を下ろす。
 
それから3年間、メンバーは各々の別バンドやソロで活動していくのだが、2008年、2ndアルバムの発売10周年を機に再結成。
そして翌2009年、EP"Simple Science"で新曲を公開した後、2011年初頭にリリースされたのが、本作になる。
 
 
以上が簡単なバンドの歴史だが、ここから本題に入りたい。
すなわち、「ここまでのアルバムから考えられるTGUKらしさとは」について考察してみる。
 
1stはタイトルどおりのスピード感で*5、10代の衝動と焦燥をそのまま表したようなストレートなギターロックだった。
原理的にはこれがオリジナルの「TGUKらしさ」というものか。
 
しかし、1stリリース後にJamesが加入。
続く2ndではキーボードを巧みに前面に押し出し、静動のメリハリによってメロディを際立たせた。
この時点で、1stの持っていたシンプルなエモロックはほとんどなくなる。
仮にこのアルバムの中に1st期の曲を入れたら、浮いてしまうのは間違いない。
 
そして問題の3rd。これは前述したとおりで改めていうまでもないが、2ndまでの疾走感を意図的に排除し、まったくのゼロから新しいサウンドを構築した。
良くも悪くも予想を大きく裏切り、2ndの成功に比べればセールス的には大惨敗。
しかし、これがバンドの表現の幅を大きく広げることになる。この後の4thのクオリティを生み出すために、この極端なシフトは必要だし、必然だった。
これを「成長」または「進化」と呼ばずしてなんと呼べばいいのだろう。
この3rdアルバムが、冒頭のたとえに出た"タント"的な役割の第1弾だったと僕は思う。
 
その4thに関しては、上で「ここまでの集大成」と表現した。
僕はTGUKの当人でもなければ知り合いでもないから彼らの本当の心はわからない。
単に「3rdが失敗だったからまた2ndのようなアップテンポな曲を多くすれば売れるんじゃないか」と思っての回帰だったのかもしれない。
 
だが、仮に彼らが「ただの回帰のつもり」で作っていたとしても、
4thのロックと2ndのロックは全く違う。
そこで彼らは3rdのソフィスティケートなサウンドや展開、人生の暗部を歌った歌詞などを、一見おなじみの疾走感の中に織り込んでいた。いや、「彼らが織り込んだ」というより、「勝手に織り込まれていた」のだと言った方がよいかもしれない。
3rdで手に入れた曲作りの手法はすでに骨身に染み込んでおり、それをまっさらな状態に戻して以前のように作る、ということは不可能だ。
意図的か否かに関わりなく、もうこの時点でTGUKに2ndと同じ作風のものを作ることはできなくなっていた
 
ただ、それを退化とか劣化と呼ぶのは、たぶん違う。
僕らにしても子供から少しずつ大人になるにしたがって、様々なことができなくなっている。
鏡に映った自分の姿を不思議がって飽きずに眺めることをしなくなることを、退化と呼ぶか。
クリスマスにサンタクロースが家に来ることを信じなくなることを、劣化と呼ぶか。
好きな女の子と朝の挨拶を交わすだけで1日中気分が舞い上がり続けることがなくなることを、頽廃と呼ぶか。
 
経験をし、学習をして、いろんなことを「知ってしまう」。
そして子供の純粋さを失いながら、僕らは代わりに新たな能力を獲得し、未知の世界に進んでいく。
それはある面で残酷なことだが、それでもそうやって生きていくしかない。
それを「悪い」ことだというのであれば、歳を重ねることには絶望しかないではないか。
TGUKは、その「喪失」に抗わなかった。
逆に「喪失」を進化のきっかけにし、爆発的な化学反応を引き起こしてきたと言える。
 
 
とにかく、これで結論が出た。
 
TGUKのアルバムには、一つとして「前作と同じような感じ」のものはない。
そして、そうやって前作で培ったものをある時は捨て、後に再び拾い上げる。そのとき別に手に入れたモノと組み合わせて全く新しいスタイルを作り上げることこそが、TGUKを前へ前へと進化させている。
僕は、「TGUKらしさ」とは、この「変化し続ける姿勢」にあるのだと思う。
 
だから、僕はこの5thアルバムが何ら「TGUKらしくない」とは思わないし、これによってTGUKの才能が枯渇したとも全く思わない。
僕がTGUKがダメになったと思う時が来るならば、それはむしろ前作と同じ雰囲気のアルバムを作ったときになるのではないか。
 
 
先日の来日公演でTGUKは、初の1st、2ndのアルバム再現ライブを行った。
この5thの曲は一つも演らなかったが、初期の曲にも当時にない力強さが見えたように思える。
僕は、今までのノウハウを捨て去り、別のバンドのように荒々しくなった5thが、再びTGUKの血肉に新たなものを運んできたのではないかと思っている。
 
見えにくいが、確実に、彼らは次のステップに向けて再び進化しようとしている。
 
この"There Are Rules"が、そのための必然的な経験値だった、ということを、次のアルバムを聴いたときにまた書きたいと思う(まだ新曲の目途すら立っていないけれども)。
 

*1:久しぶりにクリアまでプレイできずに心が折れたゲームだった。初代からのシリーズのファンだっただけにいろいろとクるものがあった。悪い意味で。

*2:断っておくが、3rdの楽曲も、演奏も、ミックスも、決して低クオリティではない。むしろミドルテンポの曲の美しさは全アルバムの中でも随一の評価を受けている。あくまでも、「ライブで拳を突き上げるような曲が皆無」という点で、1stや2ndと同質のものを期待したファンには受け入れられなかったのだ。

*3:Jimは新婚旅行に行ってしまい、一方Jamesは離婚調停中だった。

*4:そのライブは"Live! @ The Granada Theater"というタイトルでCD化された。リリースは解散発表後だったが、ライブが行われた時点で、またリリースが告知されていた時点では解散の発表はされていなかったため、ファンに大きなショックを与えることになる。

*5:アルバムタイトルの"four-minute mile"とは、陸上競技1マイル走で4分を切ったものに与えられる称号。1マイルは約1609mであり、よりメジャーな1500m走に単純に換算すると3分43秒を切ることに相当する、といえばその「速さ」が分かるのではと思う。